中世の「会所」

建築史

寝殿造は平安時代から中世にかけて見られた貴族の住宅様式で、住宅で現存する建物はありませんが、平等院鳳凰堂などが様式としては近いとされます。母屋、庇、床板、柱、そして濡れ縁で構成されたフラットな空間で、壁に囲まれた部屋はほとんどありません。御簾や几帳、屏風、衝立などで仕切りを設けて暮らしていたようです。部屋として仕切られてはいませんが、使用目的によって大まかにゾーニングされていました。中心となる建物(寝殿または正殿といいます)の前にはニワと呼ばれる広い空間が設けられ、そこが儀式や公的な接客を行う場所になります。寝殿(または正殿)は執務空間、東対(の一部)が比較的私的な接客空間、北対屋がプライベート空間です。

中世になると住宅様式は書院造に変化していきますが、使用目的に応じた個別の建物ができたことも書院造の特徴のひとつで、私的な接客空間は 「会所」となりました。「会所」建築の直接的モデルと考えられているのは有力寺院の方丈です。本来、方はスクエア、丈は長さの単位で10尺のことですから、方丈とは10尺×10尺の空間ですが、(方丈記の方丈はこちら)のちに寺院の住職が生活する建物を指すようになり、「会所」のモデルとなった方丈もこちらです。

「会所」の中心には九間(ここのま)と呼ばれる3間×3間の部屋があります。ここで参加者全員が一堂に会して車座となり、闘茶や連歌などの遊興的行事が行われました。日本の伝統文化の多くは中世にルーツをもちますが、その主舞台だったのが「会所」です。連歌は、その場限り、貴賤を問わず参加者が一座をつくったといわれ、事実、皇族をはじめ将軍・上級武士・僧侶・有力町人が一堂に会することも多かったようです。そのイベントプロデュースを担当したのが同朋衆と呼ばれた人たちで、目利き(高度に洗練された教養を持つ人)は、〇阿弥と称する下賤の身であっても重用されました。

「会所」は特権階級を中核とする文化・芸術サロンです。わび茶の創始者・村田珠光と大成者・千利休を繋ぐ武野紹鴎も連歌師だったそうですから、当然、「会所」から生まれた文化人ネットワークの一員だったことでしょう。私的な接客空間と書きましたが、当時の上級武士にとっては文化的な洗練度をしめすことが自らの権威を高めることにつながったとも考えられます。九間は何もない空間ですが、そこに至るまでの部屋には座敷飾りと呼ばれる様々な空間演出が施されました。生花も座敷飾りから派生したものです。

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