1間(けん)=6尺とは限らない

畳がある家で育った人には部屋の大きさを〇〇畳相当と表現すれば伝わりやすいという知見がかつてはあり、主要室の面積は㎡数と畳数を併記することが一般的でした。その当時、特に高齢の男性からは“都会の8畳は田舎の6畳くらいだから”といった言葉もよく頂きました。山陰地方は1間(6尺)≒1818or1820mmモジュールではなく、6尺5寸≒1970mmモジュールの住宅が多かったからです。
都会の8畳(6尺モジュール)≒3.64×3.64≒13.25㎡、田舎の6畳(6尺5寸モジュール)≒2.955×3.94≒11.64㎡ですから正しくはありませんが、6畳=11.64㎡という身体感覚を持った人が都会の6畳(9.94㎡)をとても狭く感じ、“自分が必要とする(田舎の)6畳の広さは、都会では8畳の部屋でなければ満たせない”と感じたであろうことは解ります。
一間≒1818と決められたのは明治時代のことですが、地域ごとに様々なモジュールが存在するのは何故でしょうか。本来、一間というのは長さの単位ではなく柱と柱の間(スパン)の数を指していました。柱2本なら1間、柱3本なら2間と呼び、柱間寸法は関係ありません。今でも神社・仏閣を〇間×〇間と表記(出雲大社なら2間×2間)するのはその名残です。
平安時代の畳は必要に応じて持ち運ぶ敷物の一種ですが、中世になると畳を部屋全体に敷き詰めるようになります。その際、敷き詰める畳の寸法を統一化したほうが都合よく、畳寸法の規格化が柱間寸法の規格化を促し、地域ごとに1間(柱間という意味)を〇尺〇寸とするモジュールが定着していったと考えられます。茶室や京都の木造建築では柱間モジュールではなく、畳寸法+柱幅で平面上の寸法を決めていく手法が残されています。これは畳寸法の規格化から柱間寸法の規格化に移行しなかったケースでしょう。
ちなみに、板の間に座るときに用いられる敷物を総称して“座”と呼びます。時代劇で見る藁縄を渦巻き状にした敷物は“円座”ですし、現代でも“座布団”は文字通り布団で作られた座です。平安時代には畳も“座”の一種ですから、畳を敷き詰めるようになった最も格式が高い部屋は、板の間のままの部屋と区別して“座敷”と呼ばれた訳です。