ニワから庭へ

共同作業、集会・政(マツリゴト)、神降しに使われていた“ニワ”とは別に、大陸・朝鮮半島からの帰化人がもたらした“庭園”という文化装置が日本に入ってきたのはいつ頃なのでしょうか。
「日本書記」には、路子工が須弥山・呉橋を造った話(612年)や馬子の邸宅に庭園があり“島大臣”と呼ばれていた話(626年)が残されていますので、7世紀初頭までは遡ることができそうです。また、別の書物には顕宗天皇の治世(485~487年)に曲水宴が行われたという記述があるそうで、その場合は5世紀末に遣水があったことになりますが、遺跡が残されているわけでもなく人工的に造られた空間だったかどうかもわかりません。
飛鳥・奈良時代の”庭らしきもの”は庭園か祭祀空間かはっきりしていないそうですから、いわゆる日本庭園がつくられたと確実に言えるのは平安時代といくことになります。武陵桃源、神仙思想、ついで浄土信仰に基づいた庭で、遣水、須弥山、桃花(桃源郷)、蓬莱山、苑池、三尊石などが置かれたようです。これらの庭に共通するコンセプトは、それぞれの思想が描く理想郷を再現することだったのでしょう。
始めの頃は大陸の手法やデザインが絶対視され、それがステータスでもあったと思われますが、時代を経るにつれて日本的変容を見せはじめます。たとえば池を構成する直線護岸が州浜(緩傾斜護岸)に代わり、桃花よりも梅花、さらには桜花や松が多く用いられるようになります。次いで、鶴島・亀島など大陸オリジナルには無かった要素も加わり、日本庭園は大陸からもたらされた思想が描く理想郷という要素が薄まり、自然景観の再現性を重視していったようにも思われます。
庭園に再現される自然景観のモデルはいわゆる名勝地ですが、平安貴族にとっての名勝地とは別名・歌枕の地ということなのでしょう。写真は以前紹介した深田氏庭園の鶴島(別アングル)です。