鉄穴ながしの鉄穴とは

たたら製鉄に関連して“鉄穴(かんな)ながし”に言及されることがあります。山を崩して大量の土砂を河川に流していたことを環境破壊として批判する文章、崩された山は棚田となり下流に流された土砂は斐川平野を形成したと紹介する文章など様々ですが、稀に、基本的な事実を無視したかのような記述も見受けられます。
”鉄穴“の由来はご存じでしょうか。出雲地方で行われていた製鉄については、出雲国風土記(733年)の飯石郡の章に飯石小川(斐伊川支流)や波多小川(神戸川支流)に鉄(まがね)ありと書かれていることから確認できます。この鉄(まがね)は砂鉄を指し、当時は製鉄に用いる砂鉄を川から採取していたことが判ります。中国山地は主に花崗岩で形成されているため、その花崗岩が風化してできる真砂土(まさど)が豊富です。真砂土に含まれる砂鉄は比重が重いため、川の流れが緩やかな場所や海岸に堆積することがあり、その体積スポットから砂鉄を採取していた訳です。砂鉄を取るために掘った穴のことを”鉄穴“と呼び、のちに砂鉄採取の呼称となったのです。川でとれる砂鉄は川砂鉄、海岸でとれる砂鉄は浜砂鉄と呼ばれていました。
中世半ば以降、砂鉄を多く含んだ山砂を川に流して下流に堆積させるようになり、やがて、谷川のやや急流なところに筵を敷いてそこに砂鉄を留めるようにもなりました。これが“鉄穴ながし”の始まりでさほど大規模なものではありません。堀尾吉晴が1612年(慶長17)に斐伊川上流で“鉄穴ながし”を禁止したというのもこれで、その際、唯一の賃仕事を失った農民は毎年のように再開を嘆願し1636年(寛永13)に禁止が解かれました。江戸中期になると、洗樋を設けて山を切り崩し、下流河川の汚濁を引き起こす大規模な“鉄穴ながし”が始まります。この“鉄穴ながし”は下流にある水田の取水に支障が起きないよう、秋の彼岸から春の彼岸までしか行われていません。製鉄業を営んでいた“鉄師(てっし)”は大水田を有する大地主でもありましたから当然のことかもしれませんが。
1885年(明治18)における仁多郡(現在の奥出雲町の大半と雲南市の一部)の人口は22,500余人、戸数4,418戸です。このうち製鉄従事者は、1882年(明治15年)のデータで鍛冶屋15人、製鉄場関係2,300人、関連召抱人3,500人となっていますから人口の約1/4にあたります。製鉄従事者と農業従事者の対立が激しければ地域社会に与える影響も大きかったでしょうが、そのような話もあまり耳にしません。むしろ、農鉱一体となった社会構造だったと考えられないでしょうか。
“鉄穴ながし”は砂鉄を得るため(古代から)山を切り崩していた?“鉄穴ながし”によって河川の汚濁を引き起こし下流の農民と対立していた?・・・本当にそうだったのでしょうか。